マイナス出発の私がつかんだ普通の生活。46歳、選択的シングルマザーの生存戦略

2026年、46歳。選択的シングルマザー歴26年、3人の母。
学歴も資格もない「マイナススタート」の私が、なんとか【普通の会社員】になるまでの話。

ザ!ダメなやつ!何をやっても続かない転々虫

今でこそ年収500万、なんとか「普通の会社員」の顔をしているが、ここまでの道のりはかなり香ばしい。

10代。目立つ不良ではなかったけれど、学校外では大人のコミュニティにいた。ませていたのだ。高校にはまともになじめず、あっさり中退。

その後、実家の仕事を手伝うも、先が見えないしつまらなくなってすぐドロップアウト。家出した先で美容関係の職につくも、アレルギーと人間関係から逃げ出し、捜索願を出されたこともある。当時17歳。

割と器用で勘も悪くなく、何をやっても初心者感が出ない。今思えば「感度のいいアンテナ」と「それを受容して処理するOS」の不一致みたいなものだったと思っている。

行き着いた先は夜の世界

精神も仕事も安定しないまま、大人の飲み屋に入り浸っていた私は、当然のように夜の世界へ流れ着いた。

そんな時に長女の妊娠が発覚。20歳の決断は「1人で産んで育てる」だった。

一念発起して昼職を頑張ったけれど、持って生まれた性分はそう簡単には変わらない。シングルだから先立つものも必要で、昼と夜を兼業する時期もあった。

場面が変わりすぎて、今職務経歴書を書いたら写経より長くなる自信がある。そのくらい「始めては飛び、飛んでは働き」を繰り返していた。

2人目の妊娠で思い知った「安定」の重み

2人目を妊娠した当時、なんでもいいから1番になりたかった私が選んだのは風の世界だった。

風の世界も水の世界も、自分自身を商品にする以上「若さ」こそが最大のアセットになる。仕事自体にはやりがいを感じていたけれど、自分の体力に限界を感じ始めた33歳で、次の妊娠が発覚した。

体調が一気に不安定になると同時に、収入も途絶えた。自力ではどうにもならなくなり、国のお世話になることに。一足飛びには理解できなかったけれど、この時初めて「安定した生活」を手にした。

月にいくら稼げるかより、どれだけ安定して収入が得られるかがいかに大切か。結果が全ての世界で生きてきた私は、頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けた。

人様のご迷惑にならずに、私にできることってなんだ?

収入は安定したけれど、身体は健康だし、国におんぶに抱っこは嫌だった。

夜の世界に戻ることも考えたが、日曜祝日や客入りのいい夜間帯は保育園が開いていない。開いていたところで「就業証明書どうするんだ問題」が立ちはだかる。接客中に「お子さんが発熱しました」なんて連絡は受けられない。

保育園の開園時間に合わせた仕事に切り替えるしかなかった。さらに、生まれた息子は知恵熱や体調不良が続き、まともに外へ働きに出られなかった。

在宅ライターを始めたものの、子どものお世話をしながら保護費を上回るほど稼ぐのは至難の業だった。

世間知らずの派遣デビューと、突きつけられた壁

子どもの体調が落ち着いた頃、初めて派遣で働いた。まともに昼間働いてこなかったせいで、とんだ世間知らずだった。

接客業の経験と自営業の実家育ちのおかげで、電話応対や対面の礼儀作法は問題なかった。しかし、

 「共有フォルダってなに?」

 「組織ってどういう構造?」

 「役職の偉い順は?」

 「勝手に決めちゃダメで、誰かに許可を取るの?」

事務職に必要な常識が皆無だったのだ。パソコンへの苦手意識はなかったが、実務の全体像がさっぱり分からない。

風の世界は、良くも悪くも「全部自分持ち」の完全自己責任。指示を待つ働き方なんて許されない世界にいたから、派遣先で「何かあったら許可を得る」というプロセスにつまずいた。

だが幸運にも、働いていた派遣元から「契約社員として働かないか」と声がかかった。

学歴もない、職歴も書けるものがない。けれど派遣元に入れば「企業が欲しい人材」を知るきっかけになるかもしれない。接客で培った勘の良さと度胸が活かせるかも——そんな淡い期待を胸に、派遣業界へ飛び込んだ。

「求められている人」の正体と、棚ぼた戦略

厳しいことも多かったが、企業担当者や派遣スタッフさんからの反応は悪くなかった。相手の求めることを察する能力だけは無駄に鍛えられていたので、信頼を得るのに時間はかからなかった。

同僚とはうまく馴染めなかったが、上司に恵まれ、持ち前の「おせっかい」を活かせる仕事は楽しかった。企業とスタッフの板挟みになりながらもやりがいを感じていた。

しかし、ここでまた問題が発生する。契約社員の給与では保護費を上回らないのだ。しかも、自分が担当している派遣スタッフさんたちの方が、私より給料が高いという現実。

そこで気づいた。企業が求めているのは、学歴でも職歴でもないことが大半(少なくとも私がいた現場では8割方)だったのだ。

 何か言われたら「はい!」と素直に返事ができる

 既存社員とうまくやれる

 明るく挨拶ができる

スキルや資格が絶対条件の現場もあるが、条件を少し下回っていても「圧倒的に感じが良い人」が採用される場面を何度も見た。

「あれ?私、企業受けもスタッフ受けも悪くない。つまり『感じの良い人』枠でいけるのでは?」

しかも派遣社員の方が給料が高い。あわよくば、派遣から正社員を狙えるかもしれない。棚ぼたを狙って、私は派遣元を辞め、自ら派遣社員へ転身した。

掴み取った正社員の道

派遣元時代、年齢制限を受けにくい職種を観察していた。経理や総務は年齢の影響を受けにくく、時給も下がりにくい。

そこで職業訓練校に通い、簿記を取得。人事・総務・経理で入れる職場を狙った。

派遣されたのは比較的安定した企業。これまで学んだ「求められるコミュニケーション」をフル稼働させて働いた。

時給制ではあったが、2ヶ月目には生活保護から卒業。この働き方なら子育てと両立できるという、微かな自信が芽生えた。保護費受給中はできなかった投資もほんの少しずつ始められ、人間としての尊厳を取り戻した気がした。

運もタイミングもあったと思う。けれど派遣社員として就業して3年後、第3子を出産したのち、私は正社員として迎えられた。学歴も職歴もない「転々虫」だった私が、だ。

100%の戦略ではなかったけれど

「この道なら戦えるんじゃないか?」
「ここなら私でもいけるかもしれない」
そうやって常に自分の生き残り戦略を探してきた。

可能性が低くても、その時自分にできることを愚直にやった。戦略こそが全てとは言わないけれど、生き残れるルートを探し続ける努力をやめなかったことが、少なからず結果に繋がったのだと思う。

じゃあ、今幸せか?

正社員になって数年。生活は格段に安定した。投資に回せる金額も増え、子どもと過ごす時間も作れている。目的を果たしたという意味では、間違いなく幸せだ。

けれど、転々虫の性分が消えたわけではない。感度の高すぎるアンテナが無くなったわけでもない。時々、周りとの世界のギャップに疎外感を覚えて消えたくなる夜もある。

結局、幸せかどうかは「足元にある幸せを見つけられるか」にかかっているのかもしれない。

どうしようもない人間だったけれど、1番になりたくて飛び込んだ世界で1番を取った。いろんな助けを借りながら、なりたかった正社員にもなった。1人で育てると決めた長女は結婚し、今や孫までいる。

意地を通し続けて、ずっとシングルマザー。やりたかったことは、なんだかんだ叶えてきた。

だから私は、まだ「何者かになれるんじゃないか」と自分を諦めていない。

こんなダメ人間が今なんとか普通に生きていること。それ自体が、実は自分にとって一番難しい挑戦だったんじゃないかと、ちょっと誇らしく思ったりもしている。

46歳、まだ諦めるには早すぎる。ゴロゴロしながら(←ナマケモノにはなれた)自分のジェットコースターみたいな人生を振り返って書き連ねてみた。

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