黎明

雪山の山脈のモノトーン線画

1.山の朝

気温がかなり下がってきた。 ここの朝は早い。私は正確に自分がいる位置を知らないが、周辺に生えている植物の形状的に背の高い樹木がなく、針葉樹林が眼下に見えることから比較的高山地にいるようだ。山間から朝日が昇ってくる。

山頂に雪を蓄えた山脈に朝陽が当たり、眩いくらいに輝く。折しも先日降った初雪のせいか、この季節の山渓はさらに美しさを増す。厳しい自然環境の中でもう数十年生き抜いて来て幾度となく自分の【配置】を恨み、憎んだが、この景色だけは私に前に進む勇気を与えてくれた。

こんな辺鄙なところに住む必要はない。しかし、私には下山できない理由がある。何故だかは全く分からないし、誰に聞いても【配置ミス】【ただそうなった】を繰り返させるだけなのだが、私はこの山に似つかわしくないレーシングカーとここに取り残されている。

取り残されたと言う言い方は正確ではないのかもしれないが、何故こうなったのか理由が不明な上に、何故か私とこの機体はペアで動かすと言う運用だけは決まっているらしい。そもそも、そんなものをどうやってここに運んで来たのか?その単純な疑問の問いにすら回答はどこからもないのだが、何故かルールがある。

車体を錆び付かせるな!エンジンを焼くな。と言う摩訶不思議なルールがある。車体を錆び付かせるな!エンジンを焼くな。と言う摩訶不思議なルールだ。

 私の最初の記憶では山のルールを教えてくれた人達がいた。その人達は山での暖の取り方、水の確保、越冬について事細かく幼い頃から教えてくれた。また同時に山岳用のバイクについても乗り方やギアの構造について簡単に説明してくれた。

しかし何度懇願しても下山許可は降りなかった。やはり機体とペアと言う条件でかなり救助なのか、移動が困難な状況ということの説明のみ受けた。人力で運ぶには足場が悪く、またテコの原理を応用できそうな樹木が周辺にない。

当然、ヘリポートなどあるわけもなく、私がいる地点は地形の影響で風の影響はほぼないのだが上空では山間地且つ風向きが常に変化するため、ヘリを飛ばすことがコスト的にも安全的にも合理的でないとの判断らしい。

また仮に運良く車体を吊り上げられても、レーシングカーは軽量化されており走行時の風圧設計はされているが、下や横から煽られた場合には車体のダメージと、エンジンが守られる保証がないという悪条件が、重なっているらしい。

そもそもこんな場所に、レーシングカーがある事自体が不条理で、解体して運べばよいと何度か提案したのだが、それは規律違反になるのだと、規律の説明はなされないまま要領を得ない返答が来た。置くことが出来るのに撤去は不可能、一体どう理解すべきか今も考えあぐねている。

方々に手を尽くしたがこの環境を受け入れるしかないという事のみ分かった。何故かペアで何故か車体を私が守る任務付きで。さらに腹立たしいのが、この機体には通信機器が装備されている。初期は短いメッセージだけがレコーダーのように再生されるもので、あちらの言い分のみが、伝言された。

決まって内容はこれ『エンジンを焼くな、車体を守れ』短いメッセージが雑音と共に切れた後の世界には、自分荒い呼吸音のみが残った。

雪山とレーシングカーの線画

いつの頃からか相互通信が可能になったがそれでも指令は同じ。また、私の下山したいという要望は聞き入れてもらえない。ここにいる意味、なんでレーシングカーがペア化されているかの問いにも返答はもらえないままだった。

ただ、これはある意味仕方なかった。何故か、私に指令をする人は八百屋さんのおじさんだったから。当然である。彼は野菜のプロフェッショナルであって、レーシングカーの事も山岳の知識も経験もない。

また何かの圧力をかけられているとかで、細かいことは聞くな、とりあえず職務のみ全うしろ!と何ともしがたい状況を抱えているようだった。彼なりの優しさ『もっと肩の力抜いて、生きてりゃいい事あっから』この言葉に嘘がない事はわかった。

しかし、この不合理な環境下でその言葉はなにも私を救わなかった。肩の力の抜き方など教わったこともないし、この極寒の中での肩の力の抜き方はいまだにわからない。ただ、いつも励ましてくれた彼には感謝しているし『人間、寒くて腹が減ってるときはろくなことを考えない』これだけは今も格言だ。

2.山での生活

今でこそここの生活にもなれて、ここも悪くないそんなふうに感じる事も増えたが、私の1番古い記憶にあるのは【何故ここにいる必要があるのか】という疑問と、周辺環境からの排他的な対応だ。

動物達は大きな唸り声をあげ、みた事もない色の息をするレーシングカーにも見慣れない人間にも強い拒否感を示した。冷静に考えたら当たり前だ。自分達の縄張りにある日突然見慣れない生物と値の知れない四つ足がやって来たのだ。簡単に受け入れてもらえるはずがなかった。

威嚇されるのはまだマシで、こちらがそこにいるだけで攻撃対象となることは珍しくなかった。動物だけでなくたまにやってくる人間たちも私たちの存在を良く思わなかった。美しい山渓に無意味に置かれた創造物。レーシングカーは山間地では何の役にも立たないばかりか、景観的にも生態系への影響を考えても受け入れがたい状況だったに違いない。

それは彼らの言動にも表れていた。『おまえこんなところで何している?なんでこんなところに車があるんだ!邪魔だ。どけろ!お前何を考えているんだ』彼等の怒りを理解しようとしたが、理解より先に射るような視線で私の存在そのものを否定してくる。それはレーシングカーについても同じだった。常に攻撃の対象として扱われた。

しかし不思議な事に、私が何故ここにいるか分からない旨、理由は分からないが指令があってここにレーシングカーとペアで止まらなければならない謎のルールを説明すると彼等の顔色は一瞬にして青ざめて、私から距離を置いた。先程まで押し退けようとしていたのに一気に後退していくのだ。

その反応で私は彼等が指令元や私がここにいる意味を知っているのではないかと思った。しかし期待は一瞬で崩れ去った。質問を投げかけた瞬間、泣きそうな顔で頼む我々のことは誰にも言わないでくれ!懇願し転がるように下山していく。

私も連れて行って欲しいという言葉は彼等の耳に届く前に、彼等は目の前から消えてしまった。最低限の燃料やオイルを運ぶ山岳隊以外は私たちが何かの【指令】でここにいることを知らないようだった。

そういう意味では動物の方が親しくなれた。親しくなれたと言っても野生動物なので、飼い猫のように足元にじゃれついてくる事はなかったが、それでも私への攻撃は無くなった。恐らく最初の襲撃にあった際に私が怯まずに立ち向かい、こちらの反撃のチャンスはあったが反撃せずに見逃したのが一因だろう。

命を救われた事への恩返しのつもりか、はたまた害がないと判断したのかは私には知る由もないが、同じエリアに住む仲間としてそこに存在してもいいという許しだけはもらえたようだった。

岩陰のリスの線画

3.本当の敵

動物からテリトリーでの共存の許可は得たが、高山地帯での生活自体が動物や人間からの攻撃よりある意味では強敵だった。人間の動物の共通点、それは生物であるというのはもちろんだが反応は違ってもこちらの対応で相手の態度が変化するという点については、こちらの動き方次第で関係性に変化を望めるというところだ。

少なくとも私の経験では、動物は敵では無いと認識すれば必要以上にこちらのテリトリーを侵害しないし、人間は未知のものや値の知れない存在に対しては理屈ではなく怯む。もちろん個人差はあるが、ある程度のパターン予測が可能な対象になりうる。

これが、こと自然となると話は全く変わってしまう。地球で生まれた人はこれを当たり前と思うのかもしれないが、高山地帯のような僻地ではこの当たり前が当たり前に人間の生命を奪っていく。そして私が泣こうが、喚こうが、怒鳴り散らそうが、嵐が止む事もなければ、お日様が突然沈む事もない。自然だけはこちらの対応を意に返さない。

私がそれを学ぶまでにかかった時間はそう長くはかからなかった。

訳のわからないルール、意味が不確かな指令、そもそも何故自分が存在しているかもわからない環境、不条理すぎるレーシングカーとの抱き合わせ、その現実に気付いた幼かった頃の私は泣き崩れた。

山での生活を選んでいないのにそこにいる事を余儀なくされ下山許可は降りない。誰が権限を持っているかもわからない。不条理に理解ができず数時間泣いた。声が枯れて頭が痛くなる頃、私は泣くのをやめた。正確にいうと泣く権利さえない事に気付いた。

なぜなら陽が落ちたから。気温が下がる、体温が下がると自然と身体は動けなくなる。どんどん外気が下がっていく中で体温が下がると同時に身体はどんどん冷えていく。それだけではなく思考も鈍くなっていくのを感じた。涙の後が冷たさでこわばっていく。

鼻の奥が冷えて痛い。息を吸い込むと気管支を冷気が刺す様だった。ずっと感じていた末端の冷えはどんどん感覚が鈍くなっていった。指先は私の体であって、どこか借り物のようだった。その時私の中の何かが弾けた。

【あー。私が泣こうが怒ろうが世界は何も変わらない。どうせ変わらないなら笑ってやろうじゃないか!】

同じような経験をした人なら分かると思うが、これは気持ちが吹っ切れたというよりは自分の命のために感情を切り離さざるをえなかっただけで、元々達観できるとか冷静とかいう話ではない。厳しい環境下でおかしなミッションを課せられそれでも生きなければいけない、望まずとも体は防衛本能を占拠され感情はあるけど主役の座を明け渡した状態。

心の中では納得いかなくて泣いたり怒ったりする自分を感じながら、私は命を繋ぐ道に自ずと進んでいた。雨は雨の気の済むまま降る、風も雷も私よりも自然のほうが気分屋の赤ちゃんのようだった。

凍るレーシングカーの車内からのフロントガラスの線画

4.やさしさの意味

八百屋の親父が年老いて代わりに担当になったのはお人好しの情緒的な女性だった。この人はとにかくこちらの状況について知りたがった。『大丈夫?車は凍ってない?』『エンジンは動いている?』『ガソリンはまだあるの?』そして最後に必ずこう付け足す。『あなたも自分の事を大事にしてね。』

よほど興味があったのか、慣れてきた頃に何故この配置になったのか質問を受けたことがあった。知っている限りの経緯を伝えたら彼女は突然泣き出した。『どうして?なんで?そんなのって酷い。あんまりだわ。わたしがちゃんと話すから』まるで私より私の事を悲しんでいるようだった。

わからなくもない。ここで登山者や山岳隊に遭遇するが、そんな時は緊急度が高いことが多かった。岩場のため落石や滑落は日常的に起きやすい。それにこの気温だ。化膿はしにくいがそれ以前に生存に必要な体温維持が難しいのである。生きるだけで手いっぱいの環境なのだから。

そしてこんな時に本当につながっていて良かったと思えたのがあの忌々しい通信機だ。私の下山許可が降りる事は無かったが緊急度が高い怪我人が出た際に連絡すると、必ず救援隊が来てくれた。もちろん打ちどころが悪く助からない事もあったが、自力下山の難しい状態でも星屑にならずに済んだ命があった事は誇らしい事だ。

しかし、迷いが無かった訳ではない。自身の下山許可は降りないばかりか、ここにいる理由、彼等の言う【司令】の内容すら私は知らないのである。それなのに、任務だけは決まっている。あのレーシングカーのエンジンを焼かない、車体を守る、だ。

納得のいかない思いは思想に暗い影を落とした。滑落者を見つけた時一度無視しようとしたことがある。もちろん彼に恨みがあった訳ではない。しかし、どうしても納得が行かなかった。何故何も知らない登山者達には救援隊が来るのに、ずっと助けを待っている私には来ないのか?

何故同じ要望が私の場合には通らないのか、なぜ私は何人もの人を救って来たのに私自身は救われないのか。

その時は彼に意識があるかすら確かめなかった。しかし、結局私はレーシングカーの通信機を使って救助要請をしていた。それなのに、救助された彼を見た時、私は悔しくて悔しくて堪らなかった。何故、彼らは、彼は救われるのだろう。こんな思いをするくらいなら、あのまま無視したら…そんな思いも過った。

ではなぜ私が救助を求めたか。【お天道様が見てる、お天道様が曇りで見てなくても私が見てる】すべて投げ出したくなったときいつも必ず私をつなぎとめた言葉。結局、自分を裏切れなかった。

5.はじめての友人

そんな性格であったからか、相手もまた変わっていたからか、ごく稀ではあったが縁に恵まれて登山者と仲良くなる事があった。彼等は私に地上での生活について教えてくれた。【普通】と言う概念を私に教えてくれたのはきっと彼等だ。

と言っても私に普通が理解できるかと言われたら、きっとできていないと思う。ここでは人間の意を介さない自然こそが普通だから。私が覚えた普通は、私が知ってる普通以外の【普通】が世の中にはあって、どうやらここでの生活は非日常で普通には見えないということ、あと普通に生活してたら死ぬ心配はない世界がどうやら【普通】というものらしい。

その定義で言えば確かにここは普通ではない。

酒というものも彼等から学んだが、あれには参った。まず匂いだ。慣れないのは仕方ないにしても暫く鼻の奥がおかしかった。味もやはり変だった。しかしもっと変なのは頬が熱くなり鼓動が勝手に速くなる事だった。自分の意思とは無関係に心臓が跳ねる、愉快といえば愉快だった。

住んでいる街や趣味についても語り合った。と言っても私には趣味という趣味がなかったためほぼ聞き役だったが、見たことのない世界の話はとても魅力的だった。写真も見せてもらったが、平地が多いことに驚いた。話を聞くうちに、とにかく下山したいという気持ちから、彼等の国を訪れてみたいという願望に変わった。

だが、そんなありきたりな願望は組織とやらに拒否された。そしてほろ酔いの愉快さ、夜通し語った穏やかな時間、その幸福の8割は【彼等】がもたらしたと言うことを、置き土産のウイスキーが教えてくれた。独りの酒は心躍らせてくれることはなかった。

6.朝陽

ある時通信相手が人間から機械になった。

今までの司令役と比較したら段違いに雪山での生活やレーシングカーの知識については教えてくれた。知識が豊富という意味では生活は楽になった。しかし、肝心な救援要請について口にすると突然通信環境が途切れる、それには責任者が…と口籠る。

相手は賢くなったのに、結局私が救われる事はなかった。ひどい時には英語で返答してくることすらあった。どうやら参考文献を読んでいるようなのだが、私が知りたいことの返答は何語でも得られなかった。

そんな時だった。私が助けた登山家の一人がやってきて私の事を記事にしたい、この不条理を世界に届けたい。そんな話が舞い込んだ。代わり映えのしない毎日、厳しい自然環境、いつ来るのかわからない救助。

もうすでに生活しているのにそもそも救助が来るのか?という漠然とした不安。でもいつか写真で見たような世界へ行けるかもしれないというかすかな希望。そんな感情を抱えながら司令役に取材したい旨申し入れがあった事を伝えた。

珍しいことに矢継ぎ早に返答がきた。『そんな事をするとあなたの安全が守られないばかりか、過去に遡って責任の所在を問われます。何人の人に迷惑がかかるかわかりますか?これは配置ミスなんです』そんな内容だった。

私は冷静に言い返した。『配置ミスをしたのも、過去の責任を取るべきも私には無関係だ。』他に言うべき言葉が見つからなかった。司令役のAIも暫く押し黙っていた。そしてやっと話し始めた。

『そんな事をするとあなたの安全が守られないばかりか、過去に遡って責任の所在を問われます。何人の人に迷惑がかかるかわかりますか?これは配置ミスなんです』どうやら安全設計を踏み抜いてしまったらしい。これ以上返す言葉も見つからず静かに通信を切った。

雪山と朝陽の線画

空が白んで来ていた。山の向こうから陽がのぼる。通りで指先の感覚が鈍いと思ったら初雪が降ったようだ。照らされた山際は眩い光を放っていた。立ち昇る朝霧、頬を涙が一筋伝った。

終わり

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